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母娘の思い出-無知の時代

まだコロナなんて、世の中に蔓延しなかった時のこと。


私の母が元気な時から「あんたは可哀そうに・・・。御父さんに似て不細工だわ~。」というのが、いつしか日常となった。


確かには母は、二重まぶたの目がパッチリ、鼻も高く、知らんおっさんからよく声をかけられていた。
昔からモテモテだったようで、くだらない男性とは話がしたくないとばかりに、食事はホテルか料亭と決めていた人だった。


そんなことなので、我が家のエンゲル係数はメチャ高い!というのが普通だった。


父や兄が事業で失敗した分は、全てが母の負債だったので、私は学校から帰っても遊ぶじかんなどなかった。
この頃は、家の炊事も負担しなければならず、塾へ行く時間もなかった。
今でこそ、勉強なんて!と思うが、あの頃は早く貧乏生活から抜け出したいと、そればかり考えていた。


成人になるまで、父から逃れるように何度か家出をしたが、すべて兄につかまっていた。


結局いろんなことがあり、30台で父が逝き、兄を追い出すことに成功した。
母からは「鬼のような娘」と言われたが、そんな罵倒などかまってはいられなかった。


やっと落ち着いた生活を取り戻した頃には、友人たちは家庭を持ち、プライベートでは何をどうしたらいいのかさえもわからなくなっていた。


母が難病になったのは、この頃。
やっと退院したら、兄が我である赤ん坊2人を連れて、出戻ってきた。
当然ながら同居は拒否!


それでも、この後10数年は私のやすらぎの日々は消え失せてしまう。
自分のバカさ加減に飽きれてしまう。
この赤ん坊さえも、兄のコピーだと言えても、母は病人ゆえに何もいってはくれない。
保育園に預けて、小学校にやっと入学できた頃に、兄は再婚。


予想通り、30歳を過ぎた当時の赤ん坊は、私はもちろん母も無視。


母が亡くなる間際に「きれいな娘だったのに・・・ごめん」とだけ言った。
もう体力もない身体からの言葉・・・、やっぱり遂にボケてしまったのかと当時は思った。


土日祝日の日は、どこからともなくデートを楽しむ人々を見るにつけ、どこからこんなに?と思ったものだ。
中には・・・、だから、何で自分は誰にも声をかけられないのかと悲しんだものだ。


皮肉なもので、今ではちょっとした婚活マシーンのような働きをしている。
一生現役、働く以外に誰かと話すこともなくなっている。
でも、もっと楽しい人生だったらよかったのに・・・と思うが、今はなんとか生きられている。
それだけでも感謝しなければ・・・。