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母の遺言

母が逝く前日、私はいつものように病室にいてテレビを見るだけだった。


もう食事をしなくなり一年、最近は水さえもうけつけない。


だから、点滴のみ・・・。


私を見つめてくれるでもなく、まして声などもかけてくれない・・・。


その日は、今まで見たことがない形相で、母は帰る私を睨みつけた。


今までおとなしくよこになっていた母は、私が動くと、むくっと起き上がり私を睨みつけたのだ。


疲れていた私は、母をベッドに寝かせ、帰ってしまった。


このとき、もっと母に気をつけてやればよかった。


私は最期の母の遺言を聞きそびれてしまったのかもしれない。



思えば昨日は珍しく、私が忘れかけていた幼い日のことを言いながら、涙ぐんでいた。


けれど、今日はそれもない。



胃がんと判明した時には、遅かった。


それまで何度も、母の体調が悪い、食事を受け付けないといっても医師がくる時間ではないといってはぐらかされた。


病院といっても、介護病院。


ここに十年と少し・・・、その間の病院代は高い。


大半は、個室代。


それでも、私一人では限界だったのだ。


ここに頼るしかなかった。



病院代と借金の返済。


このために、私は結構無理をしてきた。


でも、誰も誉めてはくれない。


そして・・・、そんなことを言われるのも望んではいない。



ただ・・・、「忙しい、忙しい!」と連呼する兄は、この何年かは来なくなった。


兄はここ数年、商売は右肩上がりとなり、兄弟のだれよりも金持ちとなっていたが、母の病院代の援助の話すらなかった。



先月は、母が兄に会いたいと号泣したが、それを叶えるために連絡でもするものなら、兄の怒鳴り声を聞くだけになる。



母が頑張っていた頃、母が稼いできたお金を預かる(銀行がある時間帯に母が行けないからと・・・)と言いながら、母にぴったりと兄は密着していた。


兄が結婚してからも、盆と正月に幼い子供を連れて母と私のところに、まるで物を置くようにもってきて、正月ともなれば除夜の鐘がなっても働いていた私たち母娘に、ホテルの食事の予約状況を確認し、おせち料理を作っても、それには手をつけようとはしなかった。



私は、その頃から病弱の母をかばい、元旦早々にやってくる兄のチビたちを相手にしなければならなかった。


48時間、眠らないという辛い年が10年続いた。


それでも母は、兄たちを拒んではくれなかった。


私が幼い日より、病弱な兄が常に優先だった。


それなのに、今、母が逝くかもしれないとわかっていても兄はやってこようともしなかった。



あとになってわかったことだが、兄はレストランの購入に奔走していたようだ。


その資金は、銀行に借りることができているが・・・、そんなのは1年もしないうちに完済する予定だったようだ。


つまり・・・、あるはずのない金銭を数えていたのだ。



母が危篤となった年、はじめてやってきた兄は、なんとか間に合ったが、母が亡くなっても喪主はしないと宣言した。


私はなんのことか意味がわからなかった。



そして母が逝ってしまったとき、私は泣くこともできなかった。


翌日、祖父母が眠る寺の住職さんがやってきた。


それは、私がお願いしたからなのだが・・・、



「施主様・・・」住職さんは私に向かってそう呼んだ。


そのとき、やっと我にかえった気がした。



100か日・・・、兄は期待していたお金が残っていないことに激怒した。


その後6時間、ずっと兄の「家からでていけ!」という怒号にさらされることになった。


弟がいなければ、私はきっと気が狂っていたことだろう。


母が見つけてくれた家、そして過ごした場所。


私の住宅ローンの残金もまだある。


母の位牌だけもって出ていけ!と兄が怒鳴り続ける。


つまりは自分の家でありながら、ローンを払いながら私は家から出ていくべきだと、兄はいうのだ。


まさに鬼畜の形相の兄の前に、私は地獄の中にいるとさえ感じた。




2か月後、私は頭から顔にかけて、生まれて初めて「ヘルペス」と呼ばれる病気となった。


母が逝った寂しさと、いたたまれなさに心が震えた。