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嫉妬

今から30年以上前の事です。


その年、兄は結婚しました。


私たち家族は、兄の結婚を反対はしませんでしたが、賛成もできませんでした。


理由は


兄の婚約者は記憶力が弱い・・・、ということです。



母が兄に電話したときに、そばにいた婚約者に兄の伝言をしてもらったときのことです。


すでに兄は、電話で用事が終わると、さっさとその場を離れて、婚約者と母だけの会話になったそうです。


その時に、兄に言い忘れたことを伝言として頼んだのだそうです。


そして最後に「今度は一緒に、食事にいきましょうね。」と母が、言ったのだそうです。



ところが、兄に伝わったのは最期のあいさつ代わりの「食事にいきましょう」だけしか伝わらなかったそうです。


当然ながら、そんな記憶力のない女性は大丈夫なのか?ということになりました。



けれど、ある日二人でやってきて、そのまま兄たちはいついてしまいました。


ところが、母は兄のわがままを許してしまったのです。


それからというもの、大黒柱の母と私、夫婦となった人達の奇妙な生活が続きました。



料理、裁縫の達人だといっていた女性の正体は、何もできない人でした。


田楽を作るというので放置していたら、大根をお湯にいれて煮ただけのものに、生みそを水で溶いたものが食卓にでたのです。



私は口にせず、母は思わず「まずい!」というのですが、兄だけは「おいしい」というのですが先がすすみません。


私は、彼らから離れた台所のコンロの前で自分用の料理を作り、それをお皿に入れて母だけに渡して、サッサと自分で食べました。


そんな日が続いたある日、母は仕事で疲れた体を引きづって、その女性に料理を一から教えるということをしだしました。



私は母の分ごと自分で料理して、自分の部屋に入っている間のことです。


けれど同じ家でそれはまずいと母に叱られ、結局は内緒で外食しようと言い出したのです。


私はどちらでもよかったのです。



一通り、家事を女性に教えた頃、事件が起こりました。


冬の夜、出先から帰ってきた私は、玄関の前で寒さにふるえながら困惑した母と遭遇しました。


「どうしたの?」と私が母に尋ねると、家の内側から鍵がかかっていて入れないというのです。


確かに鍵がかかっていましたが、私は鍵を持って開けるとチェーンがかかっていました。


それを確認した私は深呼吸しました。


「おい!聞いているか?あんた何をしているのかわかっているのか?」そう叫んでも中の女性は返答もしません。


「じゃ、わかったよ。立てこもる気なんだね?でもさ、主を放り出すというのは、どういうことなのかこれから教えてやるよ!今から10数えるから開けろ!さもないと、警察を呼ぶぞ!私が携帯電話をもっているのはわかっているんだろう?さあ、数えるそ!」


玄関の向こう側で女性が、どこかへ電話しているのが玄関ドアのすきまから感じました。


その時、夫婦での企みだと私は悟りました。



「8、9・・・」


ガチャリとチェーンを外す音がしたので、すかさず玄関ドアを思いきり開けて、そこに立っている女性を私は突き飛ばしました。


「誰の家でこんな真似をするんだ!そんな権利、あんたにはないよ!今から出ていけ!」と私は叫びました。


しかし、女性は何も言わず私をにらみつけます。


そして、私のほうに向かって、物をなげるのです。


私は、もう一度女性を突き飛ばし、兄夫婦がいる部屋に彼女を押し込めました。


元々は私の部屋だったのです。


そこへ彼女を押しやり、鍵をしめて出れないようにバリケードをしました。


待っていれば、絶対兄が急いで帰ってきます。


私は、弟がいるところに電話して、早く帰ってくるようにといいました。



しばらくすると兄が帰ってきました。


本来なら、まだ会社に勤務中のはずです。


家にはいれば、居間に私が腕を組んで座っていました。


傍らに布団にくるまれた母がいました。



「いったい、これはどういう事や?」という私に、兄は知らぬ存ぜぬを最初はしていましたが、結局は母さえ家から追い出せば、家は自分たち2人のものになると言い出したのです。


その頃には、弟も帰ってきていました。



結局、1時間半ほどの話し合いの末、その日は夫婦でホテルに泊まるという形となりました。


その代わり、ホテル一泊分はもつが、その後は自分たちで勝手にしろという事になりました。



それと母から預かっているお金の返還も要求しましたが、彼らは拒み、そのまま引っ越していったのです。



それから2か月後、母が頑張って休憩もしないで女性に一生懸命にした見返りは、難病という形になってしまいました。


何日も微熱が続き、大学病院で診てもらった瞬間、即入院となりました。


母の担当は、研修医の女性でした。


彼女と私は、生存率15%といわれる、この訳のわからない病名について、野外の廊下で意見を言い合いました。


彼女は報告書のタイトルとなる病名を私に尋ねてきたのです。(ちなみに、私は医療関係者ではありません)


厳しい母の病室は面会謝絶の札が上がったまま、3か月が過ぎました。


3か月後、また違う女性の研修医が担当となりました。


その頃には、輸血が何度か重なり、お正月が近づく頃には最後に帰宅したいという母の望みが叶う以外の話題は全て暗いものでした。



お正月になると、病院からマスクと防護服に見立てた衣類を着た母を車に乗せて我が家へと向かいました。


車中の母は、再び外の世界を見れた嬉しさに泣いていました。



それから間もなく兄たちに子供ができました。


子供たちを見せに来るという兄に、私は「くるな!」と言ったのです。



正月3日の夜、再び病院に行きました。


もう二度と外の世界は無理なのではとも思った瞬間です。



しかし、外出したことが幸いしたのか、それからの母の病状はよくなりだしました。


私は、希望が見えたような気がしました。


さらに2か月後、私はいつものように病院に行ったのですが、いつも仲良くしてもらっているナースたちが私を睨みつけたのでした。


不思議に思ったのですが、ナースセンターを通り越し、母のもとへ。


やってきたナースも、いつもと様子が違うので彼女を捕まえて、事情を聴くことにしました。



そうすると、びっくりしたことを言われました。


母の娘だと名乗った女性から、電話にでたナースに向かって罵倒したというのです。


その内容を聞いたナースたちが、私に憤慨したということでした。


私はそんな覚えもないので彼女に伝えてから、逆に彼女に電話にでたナースを連れてきて欲しいと頼みました。


それから主任と電話にでたナース、そして先ほど私としゃべったナースの3人が再び母の病室にやってきました。



確かに、母の娘は私一人だけれど、毎日通ってきているので、本当に苦情があれば直接言っているといいました。


そして、電話にでたナースに私の声と電話の声は似ていたか?と尋ねました。


しばらくして、疑いは晴れましたが、ではあれは誰だったのか?ということになりました。


そえから怪電話がなくなったそうです。