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鬱のあとで

9月、


もう夏バテに苦しんで、快復しないかと思ったけれど少し涼しくなるとマシになってきた。


とはいえ、少しでも身体を動かせは顔から首、胸のあたりまでびっしりと汗だくになる。




汗まみれになった服や下着は、毎朝着替えているから少しばかり汗で汚れた分は気にしないようにしている。


けれど、顔や首が半端なく汗まみれ、タオルハンカチもぐっしょりとなる。


睡眠障害っぽくても、かかりつけ医は私が要請しない限りはださないという姿勢。


正直にいえば助かる。


以前、介護うつとなったときに処方してもらった薬は依存性があった。




そのことをかかりつけ医に言うと・・・、すごく興味深く私に質問される。


処方はしても自分自身では服用したことがないそうだ。




十数年前、私はある女性のアドバイスで心療内科に行くことにした。


当時は、母の家での介護から病院に移行した時だった。


すごく大変から大変に変わったにもかかわらず、私は訳のわからない自身の異変を受止めきれないでいた。




ある年上女性に相談すると、心療内科に行くように言われた。


そこの待合室・・・私一人がういている・・・。


だいぶ待って診察室に行くと、無表情な若い女医さんがいた。


私が何をいっても反応が鈍い・・・。


まるで鉄仮面をかぶっているようだ。


「軽い鬱です」と女医さんに言われても、本人である私は全く軽くない・・・。


そこはかとなく重病の手前まできている感覚はゆがめない。




それから5日後、かなり我慢したが真夜中に苦しむさまは、まるで「耳なし芳一」状態。


幽霊武者がまるで側にいるように私を苦しめ、夜明けは一生来ない精神状態までおちる。


「もう限界・・・」


女医さんから処方してもらった薬をのみ、闇の亡者のざわめきに耐える。




倒れ込むように眠ったベッドに朝日が射し込む。


なんともいえぬ幸福感が私を満たす。


そこにもう一人の私が現れる。


「そんなことない・・・何も変わってはいないよ。」




昼頃、相談にのってくれた女性に再び相談する。


処方された薬名と飲んだ日時を尋ねられたので、私は答えた。


これは依存性のある薬だろうか?と私が訪ねると「そうだ」という。


ただし、比較的軽い症状の人向けだそうだ。




2日後、


診療内科の診察日。




私は自分から何も言わない女医さんに向けていった。


「先生、1週間かけてうつ症状を和らげる薬と速効性の薬をください」と申し入れた。


この薬の情報は前回に女医さんから提案されたものだったが保留にしていた。




『両方?!どうするのですか?」


初めて彼女から積極的な質問がきた。


「なるべく服用しないようにしたいけれど・・・、お守りとして常に持って歩きたいんです。」と私がいうと、


女医さんは処方箋を書いてくれた。




薬と会計が終わるまでの待合室・・・、やっぱり私は浮いていると思いながら待って、会計をすます。


1年と少しの介護はその後さらに8年6カ月の日々を送る。




その間に弟が真剣に私の経済状態を問う。


「どこまでの期間が必要になるかわからない・・・、はっきりいえば経済上ダメだという日は来ると思う・・・」


弟にはそんな日がくることを告げながら介護と仕事の日々の中での自分の鬱と格闘することになる。




時間的に少しきつい無理な労働を私がしても、身体が第一だからと弟が気遣ってはくれてもそれ以上のことは言わない。


私がギブアップをすれば、弟に全部負担をかけてしまう・・・、そんな思いで頑張っても、やはり最後は力尽きかけた。


まるでそれを見ていたかのように、母は逝ってしまった。




そんな中でも平穏な日はこなかった。


まったく介護に関与していない奴が「遺産をよこせ!!弟の貯めた財産も全部だ!!!」とまるで強盗のように叫び、6時間も私と弟は怒鳴られ続けた。


「もうこれまでか・・・。」1か月間、泣きはらした私は引っ越しの準備をするためにようやく動く。




母の遺品を整理することが手始めだと思い、整理していく。


母が使っていた引き出しには、まだ新品のパジャマがあることを思い出した私はそこを開けてみる。


新品は2セットのみ、あとは使用済みだった。


とりあえず全部だしてみた。


引き出しの底が見えると、ブルーのシートが現れた。


何かノートみたいな厚みのものがプクッとあるので、シートをはがしてみる。


【愛しき娘へ】という題名の茶封筒をあけると、更に白い封筒がでてきた。


この白い封筒の紙質は厚いものだった。




この白い封筒にも題名が書かれていた。


【公正証書】


なんの書類だろうか?


訳がわからなかった。




とりあえず弟と奴を呼んで開封することにした。


弟はしげしげと紙に見いっていた。


奴は「フン!そんなもの・・・」といって、私がコピーを渡すといっても無視して去っていった。




遺書というのは、公正証書だったのかと私は自覚した。


後日、奴はコピーをよこせと電話してきた。


要求どおり送ると、「あんなものは無効だ!」と奴は怒鳴ってきた。




それから奴は弁護士を雇ったようだ。


つまり、私も知っている人だった。


奴はかなりの嘘を重ねたようで、私の悪烈さを吐露したみたいだ。


私が知っているといっても、とくにそんなに親しくない弁護士は私のことをそんな人間なのかと思ったにちがいない。




奴はその頃より少し前から金持ちになったにもかかわらず、病人の母を無視し、借りていたお金も無視、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに法要も無視である。




弟が相続放棄をした分を自分に取り込むようにして、もらえるだけの母の財産を持ち去っていった。


現在私は、母が死守してくれた家に住んでいる。


母が奴に騙されて、持ち分を渡してしまった家は奴のものとなってしまった。


それでもほとんどが母名義で奴は半分も所有権がなかった家だったため、裁判で争えば、当然私が勝つに決まっていると思う。


けれど、私はもうそんな気力がなかった。


それをいいことに奴は約束を破り、母と私の荷物をわたさなかった。




半年後、生まれて初めてヘルペスになった。


とても危ないところにできたヘルペスは、今後も起こる可能性がある。




これから何が自分にとって有意義なのか?


暗中模索の日々は続く。