大阪・梅田・・・。
この街に通いだして何年になるだろうか?
「大阪には縁がない・・・。」そう嘆いていた母を思い出す。
幼き日、小学校から帰っても母がいない日々を過ごしていた。
その頃の母は必死だったはずだ。
「女が仕事をするのか?」という陰口を横目に着物をきて販売に奔走していた。
従業員が100人いたという呉服商の実家は嫌だと、サラリーマンの父を選んだが会社は倒産してしまった。
実家に戻っても祖父は病に伏してしまい、叔父も母には冷たかったという。
それでも何とか昔のツテを使って、協力者がでてきてくれたという。
そんな協力者が出る前の母の苦労は私達子供を背負ったうえでの孤独の戦いだったようだ。
心斎橋の大丸のそばでの着物の展示会を催した際、母は雪が降る寒い日に後に「ひっかけ橋」と名付けられる橋の上に立っていた。
雪の中を傘もささずショールを頭からかぶった母は、道行く人々にビラを配ったという・・・。
あれから月日は過ぎ、苦労に苦労を重ねた母は、父に背かれ、兄に裏切られて亡くなってしまった。
「すべての財産は長男が引き継ぐべき!」多忙だと言って、あまり病床の母に近づかなかった兄は、そういって母が亡くなると、何もかも処分しようとした。
母亡きあとの兄の暴動をまるでわかっていたかのように、母の言葉が遺言状としてでてきた。
全て自分の思い通りにならないといけないという兄の強欲は、最後の母の言葉に逆らえるはずはなかった。
そんなに大したものは残らなかったのは、母が兄に貸したお金も戻ってはいないし、私が直近に働いたお金も「お客だんから支払ってもらっていない」「と兄は支払わなかった。
兄が貧乏ならば、それも仕方ないことだろうがお金持ちになっても根性が変わらないというのは、ただただ浅はかだとしかいいようがない。
今は、ごく普通の暮らしを手に入れた私だけれど、母の悲しいまでの努力のおかげで支えられている生活であるには違いなかった。
雪の降る心斎橋、難波、梅田・・・、あれ以降、母は大阪に行っても縁がなくなったといっていた。
今、私はどれも縁ができてきた。
行き交う街、大阪・・・、
大阪に縁がなくなったと言っていた後の母は、東京に向かった。
私も今度は東京へ・・・、母の背中を探し求めながら導かれるままに自分の道を歩きたい。