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悲しい思い出6

翌日、病院の母がいる個室の部屋に私が訪れると、母が不機嫌な顔をしていた。


「もう、今度の女医さんときたら時間どおりにきてくれないから朝食が思うように摂れない!」
と私に不満を言った。


今度の研修医も女医さんであったが、母は時間にズレがちな女医さんだからとあだ名をつけだしていた。
人呼んで”ルンルン先生”


遅刻しても悪びれることがないというところから、母はこのあだ名にしたそうだ。


ルンルン先生は、前のまじめな研修医の彼女と違い、とにかく学生気分がとれない雰囲気の女性だった。
そろそろ長い入院生活となりだしていた母にとって、ルンルン先生には不満が多かったようだ。


けれど、そんなことよりも母の貧血はドンドンと悪くなった。


そんなある日の午後、ルンルン先生が病室にやってきた。


「この間からずっと血液成分が落ちてきていますが・・・、特に血小板が4を切りそうになっています。
このままでは、命にかかわりますから輸血しますね!」
と、ルンルン先生は私がいる前で母に告げた。


母は、いつになくルンルン先生にむかって怒りだした。


「輸血なんてとんでもない!
私の父は輸血をした直後に血を吐いて死んでしまったんですよ!
どうせ死ぬのなら、父と同じような死に方はしたくありません。!お断りします!!」


その後、ルンルン先生は2,3日ほど病室にきては母の説得をしたが、母はルンルン先生の話に聞く耳をもたなくなってしまっていた。


それからは、ルンルン先生代わりに主任先生がやってきた。
主任先生は血液の分野が専門だという。


しかし、この主任先生がやってくると決まって母は怖がったのだ。


後になれば、病態が悪化していく母に対しては明るい顔ができなかったらしいが、母が主任先生につけたあだ名は”死神”だった。
音もなく不意に現れて、暗い顔をされるので、昼間でも怖いという意味だそうだ。


死神先生もルンルン先生と同じく、母は話を聞こうともしなくなった。


それでも死神先生は毎日やってこられたが、今度は私に話しかけられた。


何故、あれほどかたくなに輸血を母は嫌がるのか?
どこかの宗教に入信しているのか?など、私がすぐには答えられない質問ばかりだった。

悲しい思い出5

私は研修医の彼女の背中に向けて言った。


「先生!生存率が15%なら私はそれに賭けるしかありません。
母は私にとって大事な家族だから、見捨てられません。
先生が私の立場なら同じことをされるでしょう?
母のことをお願いします!!」
私は研修医の彼女に懇願した。


唯一、効果があるという薬・・・ステロイド(ホルモン剤)の投与が始まった。


一時期、この薬で効果がみられたものの・・・、その効果はわずかであった。


そんな中のある日、また野外の廊下にいる私のところに研修医の彼女がやってきた。
「あまり良い状態とはいえませんが、わずかですがとりあえずお母様は落ち着いておられます。
このままうまくいけばいいのですが・・・。」


そういうと、彼女は少しからだの向きを変えて世間話をしだした。
「それはそうと、私は今、学会の論文の準備をしているのです。
あなたのお母様の病気を発表して、もっと多くの人に知ってもらいたいと思いますから・・・、ところが、この病気の名前をどうすればよいやら・・・。」


私に名前を一緒に考えてほしいのか?と思った。
彼女の言葉どおりの話ならそういうことになるけれど・・・。


『ところで先生、母は把握していますが私は具体的なことはわかっていません。
結局、どこがだめで悪性の貧血となっているのでしょうか?』
と私は研修医の彼女に質問した。


今までも研修医を統括しているという主任医長が説明してもらっても、今一つ理解ができないでいた私だった。


「背中にある骨髄の中で、人の血がつくられ、再生されているのです。
ところが、あなたのお母様は血液がつくられず、再生されないので、ドンドンと貧血状態がひどくなる病気です。」


「先生、母の病気は血液が再生されない病気なのですね?
それなら”再生不良性貧血”というのはいかがでしたでしょうか?』


私の言葉に研修医の彼女は納得したようにうなずいた。
「なるほど!既存の名前が他の病気に使用されていなかったら・・・その名前もいいかもしれない。」


1か月後、彼女は緊張した表情で私たちの病室に訪れてきた。


研修期間が終わったとのご挨拶にこられたのだ。

悲しい思い出4

「どうしましょうか?困ったわ・・・。」


看護師主任は私につぶやくように言った。


病院の廊下は適温で保たれているとはいえ、人が往来するところで安静が必要な母には不適切な場所であるには違いなかった。


「こうなったら、他の科に空きのベッドがないか問い合わせないと無理みたい・・・。」


そう言って私の前から動こうとした看護師主任に私は言った。
「この病院内なら、何かあれば先生が来てくださるでしょうからいいとは思いますが・・・、精神科だけは問い合わせから除外をお願いします。」


精神科は、この病院内でも別棟にあった。
母と私はかなりここの病院に通院しているため、患者が通れるところはすべて熟知していた。


しばらくすると、看護師主任は再び私のところにきた。


「う~ん、どこも難しいのよ。本当にここ最近はベッドの空きがないから・・・。」


看護師主任はできれば他の病院を紹介したそうなそぶりだった。


しかし、私は最後の切り札を看護師主任に告げた。
病院の特別室は最近ではどこでもあるけれど、こういった大病院ではそう簡単には空いてはいない。


そう、個室代が高くても、そんな金額を気にしない人達がこの世の中にいることは私にもわかっていた。


「看護師主任さん、それなら集中治療室に行かせてください。あの場所がふさいでいるのを私は一度も見たことはないですから・・・、
お願いします!」


集中治療室は、一度母が2泊ほどした場所だった。
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母が60歳のときに緊急で搬送されたが、機械だらけの部屋はまるでロボット製造工場にいるようだった。
その中で生の人間がいると妙になまなましく、どの人をみても助からない人達を見ているように感じた。
家族が患者に近づくときも、完全防具の防菌対策をして集中治療室にはいらなければならなかった。


あの当時の母は、集中治療室に入れられたことでまわりがそんな環境だから死を覚悟してしまっていた。
いや、少なくとも今死ぬ状態ではなかったにもかかわらず・・・なので、病気は気からだとよく言ったものだと私は思った。


後に笑い話となったが、私から連絡を受けた弟が勤め先から帰った夜に集中治療室にいる母の様子が知りたくて母に会いに行くと、
「先生、この度はお世話になります。」と母が弟に挨拶をしたというのだ。


母にすれば、防菌防具の格好は頭も顔も一部の肌いがいはすべて見えていないのだから、弟を医師と間違えてもしかたなかった。
けれど、その時も緊迫していた雰囲気の中で母の母の誤解は私達家族には、救いのようなエピソードだった。


それから2か月間、病院で検査尽くしの毎日となった。


兄の提案で当番制にして母を看ることとなった。


そんなある日、疲れている母に寄り添っている私も疲れていた。
当時、まだ旧病棟だった建物の廊下には屋根がついた野外だった。
夜風は少し私の気分を和らげていた。


そんな折に、私に誰かが近づく気配を感じた。
私とほぼ同年齢の研修医の彼女だった。


「あれほど検査しても(あなたの)お母様の原因はわからないのです。
けれど、この症状はなぜか発症者が多くなっています。」と私に言った。


私は彼女に私の疑問を問いかけた。
『先生、こんな状態はいつまで続くのでしょうか?
母は治りますか?』


研修医は静かに、そしてゆっくりと私の目を見ながら話をつづけた。


「大変お気の毒ですが、この病気の治療方法は現在わかっておりません。
そればかりか発症の原因するわからないのです。」
彼女は、つらい宣告を私に告げにきたのだった。


私も彼女の目をみながら言った。
『それでは絶対に治らないとおっしゃるのですか?
生存率はゼロだということなのでしょうか?』


私の問いに彼女はゆっくり首を横に振った。
「いいえ、治った方なら、実はいらっしゃいます。
生存率は15%です・・・。」
そういうと研修医は私に背を向けた。