happy-wingのブログ

happy-wingは婚活に悩む方だけでなく、日常のブログとしても反映させていただきたいと思っています。

悲しい思い出13

お正月の3日になると、母は自分の身体をおこしてくれと私にせがんだ。


着替えると、今日のお薬を持ってきた看護師さんの話がわずらわしそうに聞いていた。


結局、聞いていないだろうからと看護師さんは私に覚えてほしいと言ってこられた。


車いすを病室に運んだ私は、母を車いすに乗せて動かそうとしたが・・・、実は車いすを触るのも初めてなら、人を乗せて動かすのも初めてだった。


廊下に歩いていた看護師さんを呼び止めて、車いすの動かし方から教わった。


いつもの病院だけれども、お正月はわずかな人しか病室にはいないらしく、いきかう人もほとんど会わなかった。


病棟の間際まで車を停めるように弟にいっておいた私と母が病棟玄関に現れると、弟は車から飛ぶようにおりてきた。


数か月ぶりの親子水入らずの瞬間を母と弟は心から喜んでいるようだった。


けれど、3人ともマスク姿であったのは言うまでもなかった。


(これが最後かも・・・。)


病棟を振り返って見上げた私には、ルンルン先生の言葉が重く突き刺さるような思いをおさえていた。


私達を乗せた車は、病院の出口へと向かった。


しばらくして病院の建物が見えなくなった頃、母はポツンとつぶやいた。
「もう、これが最後の外出かも・・・。」


私と弟は、母のつぶやきがまるで聞こえないかのように無言となった。


街の中の道路は車の往来がまばらで、ただただ久しぶりのドライブを楽しむようにお互いが見慣れた景色を車中からみていた。

悲しい思い出12

病院からもらった薬を勝手に調合する日が始まった。


最初は恐々に薬を減らしていった私だが、1、2週間が過ぎるとだんだんと大胆に減らすようになっていた。


検査の結果が薬を減らすことで劇的に悪くなり、もう一度母を諭して、ちゃんと薬を服用させるというのが途中からの私の計画であったが、
薬を少ししか服用しなくなった時点から、血液の数値が横ばい状態となりだしたのだった。


それでも良くなってはおらず、ただ輸血の時期が遅れぎみになりそうだという程度であった。


1か月後、ルンルン先生が病室にやってきて「もう数日でお正月なので、外出してみますか?」といいに来てくれた。


当然ながら母は喜んだが、後でルンルン先生が廊下で私に「今なら外に出れるから・・・。」といった。


母の容態は油断ができない状態であるのには違いなかった。


結局、年末には外出許可は出ず1月3日に日帰りの外出許可がでた。


病気を移されることがあっても、移す力のない母と、そばにいる家族はマスク姿で過ごすことになった。

悲しい思い出11

自宅に帰った私は自分の部屋でテレビを見ていた。


テレビのCMをみながら、母の事を考えていた。


自分で注射器を打つのを嫌がった母だけれど、母が16歳のときに学校の家庭かの授業でドーナツを揚げていた際に、油がはねたことで顔面を大やけどしたことがあったそうだ。


そのとき、母と他2人の3人が大やけどを負ったそうだが、1人は服に油がかかってかろうじて大したことではなかったそうだ。


母ともう1人が、顔面に大やけどを負ったという。


その人は後にあったが、確かにやけどの跡があった。


母は、病院に行ったが1件目の治療院では治らず、すぐに他の病院へと駆け込んだそうだ。


そのとき診て頂いた当時30代の医師が熱心に治してくださって、母のやけどは完治したそうだ。


そんなこともあって、母は医師を目指そうとしたようで必死に受験勉強して医科大学にみごと合格したという。


当時の母の実家はお金持ちだったから、家庭教師をすごく雇い入れたらしい。


何故なら、母の姉と弟である、伯母と叔父はとても優秀な成績だったそうだが、母は遊ぶのが大好きな少女であったため祖父は悩んでいたそうだ。


それなのに、ある日突然医者になりたいと言い出したのだ。


祖父はとても喜んだという。


祖父の財力のおかげもあり、頑張った母は見事に合格したが、医科大学は3年目で中退している。


祖父には、体調が悪くなったという理由であったが本当は科目のドイツ語が苦手であったが、それを悩んでいる最中に、あこがれの医師が亡くなったことで目標を失ったというのが真実のようだった。


恋に恋する少女がそのまま大人になったような母らしい理由といえばそうなのかもしれないけれど・・・。