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見慣れた街

『ご予約は?』という受付の人に、
私は、「いいえ、予約していません。」と応えた。


街中の真新しいクリニックは、友人が教えてくれた所だった。
今回で2回目、急な腹痛にも対応してくれるらしいと友人が教えてくれた。


その時は、聞いていてもメモするだけだった。
でも、本当に急な痛みに悩まされて通院を決意したのは去年の後半だった。


このクリニックには、受付が3人と規模のわりにはやたらと人がいると、私は個人的に思っていた。
けれど、皆さん忙しいようなので必要なのかもしれない。


診察室にはドクターと看護師が一人づつの体制だが、奥にもう一人看護師の人が、前回訪れたときにいらしていたように記憶している。


そんな中、一人の紳士が受付にやtってきた。
紳士と受付の人は親しげに会話をしていた。
どうやら、予約の変更にきたらしい。


患者が満員というのに予約なしの私だったが、その紳士の本日のキャンセルにより、思ったよりも早く呼んでもらった。
2回目ということもありドクターは『それなら、前回にお渡しした薬をのんでおいてください。今からお渡ししる処方箋は3日以内に薬にかえてください。』といわれ、わずか2分間となり、ほぼ挨拶で終わってしまった。


ドクター曰く、免疫力が低下しているせいらしい。
10代の半ばから20代、30代、そして40代とがむしゃらに働いてきた身体には加齢によってほどほどしか労働を許さないとばかりに、最近では免疫力が落ちてしまっているようだ。


クリニックから見る街角はいつもとかわらず人が忙しそうに行きかう。
そのさまを見ながら、私はいつまで普通に歩けるのだろうか?と自問自答していた。


帰りに薬局に立ち寄り処方してもらうことに・・・。
『この薬は2回目ですが、前回に不調を感じたことはありませんか?」と若いイケメン薬剤師は私に尋ねてくれた。


「今朝、初めてのみましたが症状がやわらぎましたので、異常は感じませんでした。」という私に、彼は微笑んで薬を私てくれた。


クリニックの帰り道、しばらくすると母の実家の近くを歩いていた。
亡き母が若い頃から歩いた道を私が歩いている。


楽しいときも悲しいときも、そして寂しいときも母はこの道を歩いていたに違いない。


幼き日、母は私を連れてよくこの界隈を連れてきてくれた。
『3人も子供がいては動きがとれない。』といって、私の兄に幼き弟を託しては実家の老いた両親のところにいった。


後に兄は私にいった。
『おまえのおかげで母親をとられた!』と・・・。


その頃の我が家は父親の会社が倒産したおかげで経済力が悪化していた。
母にとっては、実家で仕事をもらっては収めているという状態だった。
けれど兄は私が、裕福な母の実家で一人で贅沢な生活をしていると思っていたようだ。


この後、母が事業を起こし成功しだすと兄の浪費がはじまった。
特に今まで我慢していたもの、つまり洋服のこだわりはすさまじく現在も同じようだ。


浪費を重ねている兄を母は、当時はあまりにも多忙すぎて兄を見ていなかった。
それほど信用していたということだ。


それから数年後、あいかわらず馬車馬のように働く母に私は尋ねた。
「今までいくら儲けることができたの?」


母は即答しなかった。
『お兄ちゃんに、聞いて・・・』


そんな母を私は「そんなバカな!信用するにもほどがある⁈」といった。
更に数年後、弟に母と兄の状態をいっていたので2人で母に尋ねた。
そして母がやっと兄が管理しているはずの銀行口座が見れたとき、残高がほぼないという状態だった。


それから、母は兄に経理を任さなくなった。


母が亡くなった直後に兄は私たちにいった『みんな仲良く3等分にしよう』
兄と弟は、独立していたが、私と母は生計が同じだった。


しかも兄は母の看護をしていない。
私は不服だったが、この先泥沼の争いになるのだけは避けたかった。


母の百日法要が終わった当日、兄は私たちをホテルの喫茶室に呼んだ。
もう書類で3等分するだけの準備をしていた私たちに、『遺産の話だが・・・』といってきた。


弟は『僕は自分の稼ぎがあるし、この先もそれで食べていくので要らない。』といった。
それなら半分ずつということになるのか?と私は思った。


『それなら、おまえも遺産はいらないよな?というより、残った遺産は家だから、家をでてもらわなければ困る!』といいだした。


突然に、私が住んでいる家の退去を言われても困ると私は兄にいった。
第一、弟が遺産をいらないといった今、私の権利は半分あるのだから立ち退きなんてとんでもないと主張した。


それからは、兄が『家から出ていけ!』
私が「嫌だ!」
の繰り返しとなった。


弟はどちらの味方にもなれないといいだした。


そんな中、事態が変わった。
兄が『おまえもおまえだ!どうせ退職金がもらえる気楽なサラリーマンなんだから、今までのおまえのところの貯蓄もよこせ!』と兄が弟に怒鳴った。


そんな兄の言動に弟は無表情だった顔から真っ赤な顔となり怒りだした。
『なんだ、それは?僕の貯蓄は僕自身が頑張って貯めたものじゃないか?それをよこせとはどういうことだ⁉』


そんな弟の言葉に私は「なんで、全部遺産をよこせ!家を出ろ!ついには遺産と関係ないところまでいうのか⁈」と私は兄に叱責するようにいった。


兄は『おまえたち・・・、グルになりやがって!』と私をにらんだ。


長男だから財産は全部自分一人のものだという兄の主張は時代が違いすぎる。
それに母と一緒に住んでいた私を用はないとばかりにゴミ扱いしようという態度が許せなかった。


兄弟のなかでも、兄は金持ちだったが利己主義の性格は死んでも治らないらしい。
結局は母の遺産の殆どを持っていってしまった。
これ以降、兄は『生きている間は、おまえたちの顔を見たくもない!』というメッセージを残して消えた。


私には借金がのこったが、銀行のローンがくめたので家を売却することなく、現在は返済中である。


母が病気で倒れて10年となる。
その間の母の闘病生活などの費用を、私は誰も援助してもらっていない。
弟がときおり『大丈夫?』と尋ねてくれたが、やれるところまではと、母の蓄えと自分の力で、この10年を乗り切ってきた。


私は思った。
母の葬儀に喪主となった私は、母が眠るお墓をまもることも、位牌も全部、私のところにある。
何も不自由はない。


けれど、殺したいといわぬばかりの兄の視線を思えば、これでよかったのだと思うようにした。
それほど妹の私を憎むなら、私のほうこそ、兄が死んでも顔もみたくない・・・と思った。


ただ、子供の為に一生懸命に苦労してきた母だが、幸せな暮らしが送れなかったことだけが・・・悲しいばかりだった。