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緑子の話 1

とうとう母は、秘密の話を墓場までもっていってしまった。


けれど、一部の母の想いは私が知っている。
現代のこの時代は、情報が氾濫している。
本当の秘密なんて、存在しないに等しいのかもしれない。


まして、昔の話など。
これから登場する人物たちは、もうこの世には誰一人としていない。
この物語を知っている私ですら、当時は生まれてはいない。


そんな昭和の初期の母が幼き日に住んでいた町の話。
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緑子にとって眠れない日々が続いた。
幼き日より、乳母日傘でなに不自由のない家庭に生まれて育った緑子にとって、この数か月は人生最大の屈辱としかいいようがなかった。


緑子は、手元にあったクッションを握りしめ、自分のお腹に押し当て、そこに自分の顔をうずめて自分の鳴き声が周囲に聞こえないように泣いた。


何故、こんなことになったのだろうか?
何故、こんな屈辱に自分が耐えなければならないのか?
緑子は、自分の運命を呪った。


結婚前の娘時代の緑子は周囲から「ハイカラさん」と呼ばれていた。
女学校に通う緑子は、中振袖に袴姿に人力車で登校していた。


女学校での彼女の成績はいつもトップ、そのうえに緑子は美貌も兼ね備えていた。
そんな緑子は、周囲の男性からもあこがれの的だった。


このうえ緑子はスポーツも万能だった。
弓道や合気道、なぎなたはもちろん乗馬でも男性に勝るとも劣らないというものだった。


裕福な緑子の家には、当然のように自転車があり、暇をみては緑子はよく自転車で広い屋敷の敷地を走っていた。


今でこそ自転車はカジュアルな乗り物だったが、戦前の大正時代の自転車は庶民には高嶺の花としかいいようがなかった。


緑子の父は学者で官僚、母は華族の出身。
豪邸の緑子の屋敷には、お客が絶えることはなかった。


それゆえ緑子の祖父母、両親、兄弟姉妹のほかに、従業員も屋敷の敷地内に住んでいたので、緑子は「孤独」というものを知らなかった。


この時代には珍しいことかも知れないが、緑子は英語が堪能だった。
というのも、屋敷内にはアメリカやイギリスといった英語圏のお客が訪問するほかに、屋敷内に居住する外国人がいた。
今でいう、ホームステイ兼英語講師といったところだろうか。


他人も羨む才能と美貌、そして家庭環境。
緑子はそんな女性だった。


緑子が年頃の娘となるころ、彼女は美貌の持ち主として周囲の噂にもなるほどだった。


戦前の当時は華族制度があり、名門といわれた家同士で結婚の話がすすむのは当たり前の話だった。
しかも、本人ではなく親主導というのも常識だったのだ。


そんな時代の縁談は、同じ格の御曹司クラスが緑子の結婚相手となるのは当たり前のことと周囲の者たちは思っていた。


緑子の父は官僚の職にあったが、もっぱら学者肌の男性だった。
緑子には、将来有望な書生こそがふさわしいと考えていたようだ。


緑子の父は学者仲間も多く、ほとんどの人々が名門といわれる家の出身だった。
そんな学者仲間の家に奉公する書生の若者たちは、家柄などのバックアップは殆どなかったので、自分の才覚だけを信じて世の中にでなければいけない人達だった。


緑子の父は、年頃になった緑子と一緒に学者仲間の家をよく訪問することになった。
美貌で才能あふれた我が子の緑子を学者仲間に披露する時に、娘を誉めてもらえることが、緑子の父にとってはいつしか快楽に近い気分が味わえることに自己満足した。


ある日の午後のティータイム、父は緑子がくつろいでいる時に手招きした。
「緑子、この数人の男性の中から選びなさい。将来の結婚相手になるかもしれないから・・・」


そういって緑子の前で十数枚の男性の写真を、まるでトランプのカードのようにテーブルの上に並べた。
「3人選びなさい」という父の言葉に緑子は写真を食い入るように見た。


今突然にいわれたとは言うものの、以前よりこの日がくることは緑子にはわかっていた。
だからこそ、父と一緒に行動することにも抵抗はなかった。


けれど選べといわれると、やっぱり迷って考えてしまう緑子だった。