悲しい思い出40
母は16歳の時に家庭科の授業で顔にやけどを負ったことで、T病院の副院長先生のおかげで治った。
その後、親子ほどの年齢のある2人だったけれど診察室でしか会えなかった副院長先生は、優しく母に接してくれたそうだ。
そんな副院長先生は母の初恋の人となった。
頑張って医大を受験して合格した母だったが、しばらくして事故にあわれて副院長先生は治療の途中で、なんらかの感染症となり亡くなってしまったそうだ。
その事故さえなければ、少なくとも母の運命は違ったものとなっていっただろうか?
副院長先生が亡くなったことを聞いて、何もする気がなかった母であるが、近所にいる友人の家が旅館をされていて、そこで一人の青年と知り合うことになったそうだ。
この青年の親は、工場を経営していたそうだが、母の父親である私の祖父は、その青年が気に入らなかったそうだ。
そんな折、落ち着きのある別の青年が祖父に近づいてきたそうだ。
祖父はその青年が気に入り、放置したら自分が気に入らない青年と結婚してしまうと思ったそうで、母と交際しそうになった青年と無理やり引き離したのだそうだ。
そして、別の青年と結婚しようとしたのだが・・・。
後に、この別の青年は私の伯父となる人だった。
結局、母は見ず知らずのプロフィールだけ立派な父と結婚をさせられてしまったというのだ。
私の父は、私が言うのも・・・、実に冷たい性格の男だった。
母はいろんな苦難を乗り越えて、起業という道をとった。
そして、母が一家の大黒柱となった。
ほんの少しのロマンスは、若き日々の思い出と押し込めた母は、娘の私がみてもたくましく、そして後から思えば悲しい人生だった。
T病院では8年半もの闘病生活を過ごした母は、胃がんとなり1年以上も飲食ができない状態で他界してしまった。
私たちは、いくつかの偶然のおかげで母の最期に立ち会うことができた。
私は母の手をとったが、だんだんと冷たくなる母が悲しくてならなかった。
まるで母が「こうやって死ぬんだよ。」と私に教えてくれたように、その当時は感じた。
母の顔に一筋の大きな涙が光った。
私はそれをふくことができなかった。
2か月後のある日、T病院は営業を廃止した。
まるで、T病院が母のために存在してくれたのかと思ったのは私だけだったのかも知れない。
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