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悲しい思い出27

死神先生が病室に入ると、後からキラー先生も入ってこられた。


母はさすがに緊張していた。
私はもうどうにでもなれと思っていた。


どうなろうと今までの感謝の言葉は忘れないように告げようとだけ思っていた。
そう私はしょせんは若いキラー先生が、ベテランの死神先生に打ち負かされる風景しか思い浮かべなかったのだった。


「まったく、今までの我々のデーターを・・・、とうか、何故今まで薬のことを黙っていたのですか?」
死神先生は、年上の母に言った。


私は黙っていた。
死神先生への私の直訴は却下され続けていたからだった。


私は静かに、母の衣服をたたみ袋に入れた。


母はそばにいた私の衣服をつかんで、死神先生と問答を繰り返していた。


しばらくすると死神先生は、キラー先生に外にでるようにと促した。


「それでは・・・、ご意見は承りました。これからは私のいう事に忠実に守って頂きますか?」
という死神先生の言葉に母は深くうなずいた。


「あなたはいかがでしょうか?」
母と死神先生のやりとりを聞いていた私にも、死神先生は念をおしたのだった。


そんなことのあった翌日には、母とキラー先生が楽しそうに話をしているのが廊下にいた私に聞こえた。


もう随分古い病棟では、耳をすませば容易に聞こえた。
私は静かに病室の前から立ち去り、やってきた病院食を受け取ると院内の台所へ向かった。


病院食を温めて病室に入ってきた私に母は、
「あら、来てたの?」と私に声をかけた。


「数日後に、また外出していいそうよ。」
明るく母は私に告げた。


即刻退院の危機はなくなったと確信した私は、今度こそ母と一緒に喜んだ。


そんなことがあった2か月後、キラー先生は他の病院へと行かれた。


その後にやってきたのは、研修医ではなく研究医の医師だった。
薬の副作用による糖尿病の研究がしたいと志願してこられたそうだが、
この医師と母は徹底的に相性が合わなかった。


一言でいえば、変人。
そして、採血の時間がずれるため母の食事時間がバラバラとなるので母は新しくきた医師に怒っていた。


それでも私はお世話になるのだからと、医師が実験用に探している風呂敷を進呈した。
実験用、ネズミを研究所から購入するときに運ぶための風呂敷だった。


医師は私が風呂敷を持ってくると、「いくらですか?」と尋ねた。
もらえないと私が言った。
その代わりに、母の採血を正確な時間にしてほしいと頼んだが・・・。


このネズミ先生と私達親子がなじむことはなかった。


それから間もなく、新病棟の移転が決定した。


そして、さらに数か月後に私と母は病院から正式に退院した。


外来での担当医師は死神先生だった。


このあと、死神先生を母は怖がらなかった。
数値が落ち込むたびに、死神先生の形相が暗くなったが、退院後にはそんな表情を死神先生はされなくなった。


数年後、母の治療は終わった。
生存率15%と言われた病から母は立ち直った。


さらに数年後、「再生不良性貧血」はもはや特定疾患の指定から外れた。
母の入院時には「再生不良性貧血」の患者は少なかったらしく、「白血病」の患者に対して保険業者が「再生不良性貧血」の病名を隠れ蓑にしていた。


だから、当初は保険業者が「この度は・・・」とお葬式に使う言葉を言ってきたので私が縁起でもないと怒鳴ったことがあった。
そう、当時は白血病も治らぬ病気だった。


とりあえず再生不良性貧血の恐怖は消えたが・・・、糖尿病という新たな悪魔との戦いは続くのだった。